煎茶 花月菴会

花月菴伝来の尾形周平作煎茶器について 中之島香雪美術館 梶山博史

中之島香雪美術館 梶山博史

1 はじめに

 尾形周平(1788~1839)は、京都の陶工である初代高橋道八(1749~1804)の三男として生まれた。名を光吉(みつよし)といい、「松風(しょうふう)」・「空中(仲)(くうちゅう)」・「君子園(くんしえん)」・「舜民(しゅんみん)」と号した。次兄が家業を継いだ二代高橋道八(号仁阿弥・1783~1855)である。
 尾形乾山(1663~1743)から伝わった陶器の製法書を読み、私淑して尾形姓を名乗ったとされる。京都の清水あこや町に居を構え、生涯自分の窯をもたず五条や清水の共同窯で作品を焼成したと考えられる。
 周平の作品は、急須・煎茶碗・涼炉・炉台・水注などの煎茶器を中心とする。それらは古染付(こそめつけ)・祥瑞(しょんずい)・赤絵(あかえ)・金襴手(きんらんで)・粉彩(ふんさい)など、明から清時代にかけての中国陶磁から図様を引用・翻案したものが多い。なかには、中国で出版された墨の図案集から図様を引用したものもある。
 一方で、当時日本国内で高揚していた西洋への関心を反映し、ヨーロッパ陶磁に絵付けをしたものや、西洋人を描いた異国趣味に溢れる作品も制作している。
 周平が手がけた煎茶器は、成形や絵付けの細部に至るまで神経が行き届いており、彼が卓越した製陶技術をもつ陶工であったことが窺える。次章からは、花月菴に伝来した個々の作品について、その魅力や特徴、意義を紹介したい。

2 尾形周平の煎茶器について
 (以下、寸法の単位はcm、重量の単位はg)

(1)朱泥写詩文急須(湯沸)

高さ8.2 口径5.6 胴径8.4 底径5.6 幅11.4 重量83 茶漉穴4
把手裏印銘「周平」


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 「朱泥」もしくは「赤泥」と呼ばれる素焼の素朴な唐物急須(もしくは湯沸)を意識して、表面が赤褐色になるように、鉄分の多い土を用いている。底裏は内湾し、布による細かな網目が残っており、火にかけて湯沸として使うことが想定されている。胴には杜甫の漢詩「奉和賈舎人早朝大明宮」の一節「九重春色酔仙桃」が彫られている。

 

(2)色絵羅漢図急須

高さ10.4 口径6.0 胴径8.9 底径5.3 幅12.5 重量110 茶漉穴7
蓋裏染付銘「為/花月菴/茶伯/周平造」)」
箱蓋裏墨書「羅漢 茗瓶/應/花月菴主人需/尾形周平/造(白朱文連印「光」「義」)/(朱文方印「周平」)」


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 華やかな上絵付によって、仏教の修行者である羅漢の群像を描いている。羅漢の衣には、「臙脂紅(えんじこう)」と呼ばれる、金が含まれることでピンク色に発色する顔料が用いられている。このような中間色は、それまでの日本の陶磁器には見られず、「粉彩(ふんさい)」と呼ばれる、色ガラスの粉で絵付した清時代の中国陶磁に見られることから、その色調を意識したものと考えられる。金彩が多く使用されているものの、濃い紫色の上絵付と併用することで、華美さを抑えている。型成形による円錐形の蓋の摘みの頂部には、さらに磁土を足して高く鋭利に仕上げている。
 急須の蓋裏や箱の蓋裏に周平が自ら記した銘文から、煎茶道花月菴流の祖となった田中鶴翁(1782~1848)のために作られたことが分かる。同様に羅漢を描いた類例として、兵庫陶芸美術館所蔵品1点、メトロポリタン美術館(ニューヨーク)所蔵品1点、個人蔵2点が確認できるが、本作はひときわ絵付けが繊細で金彩の使用量も多く、特注品であることがうなずける。


箱書裏面

急須蓋裏
 

(3)色絵唐人物図急須

高さ10.9 口径5.0 胴径9.1 底径4.9 幅12.0 重量122 茶漉穴2
箱蓋裏墨書「羅漢 茗瓶/尾形周平造(朱文方印「周平」)」


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 卵の様な長胴形の急須側面に、粉彩を意識した紫や黄緑を交えた上絵付によって、唐子を従える唐人物を描き、余白は金泥で塗り込めている。把手内部に緑釉を塗る点が珍しい。作品本体に周平作であることを明示する銘は確認できないが、上絵付や人物描写に周平作の銘を有する作品との共通点が見られる。
 ただし、本作を納める周平自筆の共箱には、画題が「羅漢」と画題が書かれており、本作に描かれている唐人物と齟齬が生じている。従って、箱と中身が入れ替わっている可能性も考慮に入れる必要がある。

 

(4)金襴手魚藻文急須

高さ8.7 口径5.5 胴径8.3 底径4.7 幅12.0 重量94 茶漉穴7
把手裏金彩銘「周平」


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 赤い上絵付で表面を塗り込めた地に、金彩で文様を描き、細部を針でかき落として文様を表現した一群の作例は、「金襴手」と呼ばれる。明・嘉靖年間(1522~66)に中国・景徳鎮の民窯で制作された金襴手の碗が、日本では懐石道具として用いられた。この急須は金襴手のスタイルによって、魚・蝦・蟹・海藻を描いている

 

(5)金襴手魚藻文煎茶碗 5客

文政年間(1818~30)
高さ3.6 口径6.3 底径3.4 重量33~40
高台内染付銘「尾形/周平」
内面赤絵銘「文政/年製」


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 コバルトを原料とした青く発色する染付顔料により、口縁付近に帯状の線を巡らせ、その上から濃い染付で唐草文を描く。側面には赤い上絵付を塗り金彩で魚藻文を施す。 見込み中央には赤絵で「文政/年製」の銘が、高台内には染付で「尾形/周平」の銘が記される。染付銘は線が細く、線の抑揚と肥痩を利かせた天保年間(1830~44)の銘とは書体が異なる。ただし「周」の構えの内にある「土」の縦棒が構えを突き抜ける点や、「平」の横線の二本目が左から右上へと斜めに払い上げる点は共通する。
 また、高台際は釉薬が胎土にきちんと定着せず浮き上がっている部分が目立ち、高台内は釉薬が均一に掛からず、釉薬が抜けてしわになるなど、技術的な安定感が見られない。
 このような特徴は、周平が円熟期を迎える天保年間より前、つまりこの銘のとおり文政年間の、まだ試行錯誤を重ねている段階のものと捉えると、理解できる。従ってこの煎茶碗は、現在制作年代を絞ることができる最も古い時期の作例に位置付けられる。

 

(6)瑠璃地金彩唐人物図急須

高さ8.4 口径6.3 胴径9.5 底径5.8 幅12.4 重量125 茶漉穴7
把手裏金彩銘「周平造」
箱蓋表墨書「金繪人物急注/周平造之」


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 透明釉を一度施し、その上から青く発色するコバルトを含んだ瑠璃釉を二重掛けしている。水色に近い明るい釉調は、「十錦手(じゅっきんで)」と呼ばれる清時代の中国陶磁を意識した可能性がある。絵付けは金彩のみで、簡略な筆致で唐人物が描かれている。目を点2つだけで表す面貌表現は、康煕18年(1679)に中国で刊行され、日本の絵師たちが手本とした『芥子園画伝(かいしえんがでん)』初集などの人物表現に確認できる。現在初代周平作として確認できる、瑠璃地による唯一の作例である。

 

(7)染付兎唐草文急須

高さ8.0 口径5.0 胴径7.3 底径4.4 幅10.0 重量63 茶漉穴7
把手裏染付銘「周平造」
蓋裏印銘「周平」


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 染付によって、唐草の間を跳ね遊ぶ兎の姿が描かれている。類似する文様を金襴手で表した周平の作例として、入間市博物館所蔵の急須と個人蔵の煎茶碗が確認できる。従って、このような図案が描かれた絵手本帳をもとに、その時々に応じて染付や金襴手で絵付けを行っていた制作状況を窺うことができる。型成形による蓋の摘みには、赤褐色に発色する鉄の顔料が塗られており、青一色の急須にアクセントを添えている。

 

(8)青磁宝相華文急須

高さ7.6 口径4.9 胴径8.1 底径4.9 幅10.0 重量94 茶漉穴3
蓋裏印銘「周平」


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 やや小ぶりの急須で、青磁釉が厚く掛かるためその発色はやや暗い。側面に彫り表された宝相華(ほうぞうげ)文は、周平が天保3年から5年(1832~34)頃に技術指導に赴いた、淡路島の珉平焼で作られた青磁花唐草文水指(兵庫陶芸美術館蔵・田中寛コレクション)の文様と近似している。従って、周平の手元にあった絵手本帳などを通して、その図様が珉平焼へと伝播したことが想定できる。

 

(9)伊羅保写急須

高さ9.1 口径4.8 胴径8.1 底径4.8 幅10.8 重量107 茶漉穴3
把手下彫銘「周平造」
箱蓋表墨書「黄いらほ急注」
箱蓋裏墨書「周平造(白文方印「光」)」


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 「伊羅保(いらぼ)」とは、日本の茶の湯において茶碗として用いられた、朝鮮半島製の碗の一種を指す。伊羅保茶碗は、「ベベラ」と呼ばれる先端が鋭利で層状になった口縁部、らせん状に彫られた胴の筋、黄色味が強い釉調、ざらつきのある土などを特徴とする。このような特徴が、急須へと巧みに変換されている。

 

(10)白磁急須

高さ8.9 口径5.5 胴径8.6 底径5.0 幅11.9 重量111 茶漉穴7
把手裏染付銘「周平造」


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 把手裏の青い染付銘以外、文字や絵付が一切ない無地の急須。絵付け前の最もシンプルな急須の形態が分かる。この急須は、周平が自ら作品名を記した共箱に収まっていないが、ほぼ同じ周平作の白磁急須(個人蔵)を収めた箱に、周平自らが「白高麗急須」と記している。従って、当時朝鮮半島製の白磁と認識されて「白高麗」と呼ばれた、徳化窯(とっかよう)など中国南部の窯で制作された白磁を意識したことが分かる。

 

3 初代高橋道八について

 初代高橋道八(1749~1804)は、伊勢亀山藩士の高橋八郎太夫の次男(近年長男の説もある)として生まれた。名は周平光重といい、松風亭、空中などと号した。宝暦年間(1751~64)に京都へ出て、当時の京都における一大窯業地であった粟田口で製陶を始めた。『南総里見八犬伝』の著者として知られる読本作家・戯作者の曲亭馬琴(1767~1848)が享和2年(1802)に記した『羇旅漫録(きりょまんろく)』には、大坂の酒造家で文人画家でもあった木村蒹葭堂(1736~1802)好みの煎茶器を商っていたことが記録されている。ただし、初代道八に関する研究は極めて少なく、初代道八として紹介されてきた作例は30点程で、その多くは楽茶碗を中心とする抹茶器である。いずれにせよ今後研究の進展がまたれる重要な陶工の一人である。

 

(11)朱泥写急須

高さ9.2 口径4.6 胴径9.1 底径4.6 幅11.6 茶漉穴3
把手裏印銘「道八」
箱身側面墨書「空中作茗甌/(白文長方印「鶴水」)」
箱蓋裏墨書「先老空仲真作/唐土茗瓶/丁酉冬/二代空中子/鍳定(白文方印「周平」)」


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 胴にロクロ目を残した、ぼってりとした胴部が特徴的な急須であるが、見た目よりも手取りは遥かに軽く、薄作りの把手は鋭利である。蓋の端部を内側にひねり返した形状は、東南アジアもしくは中国南部で作られ、抹茶道具の南蛮芋頭(なんばんいもがしら)水指に見立てられた壺の、蓋の形状を模倣している。 この急須を納める箱の蓋裏には、丁酉すなわち天保8年(1837)の冬に、尾形周平がこの急須について、「先老空仲」、つまり父である初代道八作の唐物写急須であると鑑定した旨を記している。この書付は、初代道八と尾形周平を考えるうえで、極めて重要な情報をはらんでいるのである。


箱書裏面

 一つは、急須の把手裏に捺された「道八」印が、初代道八の使用した基準印である可能性が極めて高いことである。初代の次男で周平の兄である仁阿弥道八(にんなみどうはち)も、数種類の「道八」印を使用しているが、この印は、現在この急須にしか確認できない。父である初代、兄である仁阿弥の側で長らく一緒に作陶を行ってきた周平が、父と兄の使用印を誤認するとは考え難い。


把手裏印銘

 もう一つは、「二代空中子」と記しているように、周平が初代道八から「空中(仲)」の号を引き継いだ意識をもっていたことが分かる点である。この号は兄仁阿弥が使用した形跡はなく、周平に引き継がれた可能性が高い。煎茶器制作を主な生業としていた周平は、煎茶器の名手であった初代道八の跡を引き継いだという意識を、この号と共に抱いていたと考えられる。


箱側面墨書

 

(12)売茶翁高遊外像

高さ50.5
寛政10年(1798)
首部底面彫銘「売茶翁写生松風店空中拝寛政十戊午秋日」


 日本における煎茶中興の祖とされる売茶翁高遊外(1675~1763)を、陶器で制作した全身像である。顔や衣服には部分的に彩色が加えられている。首部と胴部は別々に作られており、首部が襟に差し込まれている。ほほが盛り上がり、あごが長くしゃくれた面貌と、身にまとった鶴氅衣(かくしょうい)は、売茶翁と同時代の絵師である伊藤若冲(1716~1800)が描いた数幅の売茶翁像と特徴が共通しており、ありし日の姿を偲ばせる。

 首部の環状の底面に彫られた銘文から、「松風店空中」すなわち初代道八が、寛政10年秋に制作したことが分かる。おそらく田中鶴翁からの注文によって制作されたものだろう。
 さらにこの像については、文人画家である田能村竹田(1777~1835)が、自身の日記に留めている。文政6年(1823)3月20日の条に、「田中屋に翁の遺像あり。□□(高橋か、筆者註)秋平なる者二ツを作る其一なり。秋平ハ本ハ□□(伊勢か、筆者註)人今の松風亭の父なり」と記録されている(参考文献:『〈大分県先哲叢書〉田能村竹田資料集 著述篇』〈大分県教育委員会、1992年〉、および安永拓世「江戸時代中後期における煎茶趣味の展開と煎茶道の成立」〈『商経学叢』〉第59巻第2号、2012年)。従って、鶴翁在世中の同時代史料から花月菴に所蔵されていたことが裏付けられる点でも、基準的な作品といえる。

 

5 おわりに

 以上、花月菴に伝来する、尾形周平と初代高橋道八の作品について、その魅力や特徴、意義について紹介した。これらの作品が花月菴にまとまって伝わっているという事実からは、下記のことが明らかになる。

1.花月菴の始祖である田中鶴翁が、初代高橋道八の庇護者、パトロンであり、その関係 を息子である尾形周平も受け継いで、煎茶器を花月菴に納めていた。
2.周平が初代高橋道八作であることを箱に記した急須(11)は、初代道八の基準作であり、捺された印は、現段階でこの急須のみに確認できる初代の基準印となる。従って、しばしば混同されてきた初代、二代、三代道八の作品の判別が以前よりも進展する。
3.尾形周平没後に、京都を中心に活動した二代尾形周平の存在が文献史料から確認でき、実際にその作品も世上に多数存在している。ところが、初代と二代の関係性については、血縁関係の有無も含めて不明な点が多い。実は、花月菴所蔵品中には、二代周平の煎茶器が1点も確認できないのである。もし初代と二代に血縁関係があれば、花月菴と初代道八との関係が初代周平へと引き継がれたのと同様に、初代周平から二代周平へと関係が引き継がれ、二代の煎茶器も花月菴に残っているはずである。従って、花月菴に二代の煎茶器が残っていない事実は、逆説的に初代と二代は血縁ではなかったことの証明となる。
4.煎茶に先行する抹茶で用いられた道具の特徴を巧みに採り入れた、唐物にはない和物独自の煎茶器が含まれている(4・5・9・11)。これらの作品からは、当時の日本において煎茶器制作の最先端にあった京焼における、制作状況の一端が明らかとなる。さらに、田中鶴翁がどのような器を用いて煎茶を淹れ、喫していたのかを窺い知ることができる点で、極めて興味深いものなのである。

 なお、以上の尾形周平や初代高橋道八についてご興味がある方は、2013年に兵庫陶芸美術館で開催された「尾形周平展」図録(\2,000・税込)も併せてご参照ください。お求めは兵庫陶芸美術館まで。

 

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