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- 花月菴の歴史 – 花月菴得翁(二代)
花月菴の歴史
2.花月菴得翁(二代) 文化二(1805)年~明治十八(1885)年
鶴翁には男子がなく、一人娘である義子の婿養子として摂津国師島上郡田中村(現在大阪府茨木市島本町)の豪農西田伊右衛門の長男源次郎を迎え入れた。
その後鶴翁は源次郎に田中屋を継がせ、新右衛門(後の得翁)を襲名させた。
新右衛門は、天保の大飢饉による九年間の減造令を始め、幕末まで断続的な減造令を命じられるなど、酒造業にとって最も厳しいさ中に家督を継ぐこととなった。
しかし、新右衛門は大坂の酒造仲間(連合)の筆頭大行司として酒造業界の再建に尽力したほか、小西町年寄として、明治維新の混乱の中であったにもかかわらず、明治二(1869)年、九之助橋の建て替えを行うなど、酒造業や町の発展に尽くした。
新右衛門自身は、義父鶴翁による風流韻事、煎茶三昧のあり様を見て、養子の身であることや煎茶に没頭することで家業が傾くことを恐れ、義父鶴翁が没した後は、その一切の茶道具類を土蔵に封印し、もっぱら家業である酒造業に励んだ。また新右衛門はごく地味な人柄で、煎茶道の家元を高貴から許されながら先代鶴翁のように貴紳に近づくことなく、鶴翁から伝授された煎茶法を次男楢治郎(のちの三代一窓)やその子女の教育に用いたほかは一切門人をとらなかった。
その一方で、文久三(1863)年に田能村竹田の養子の直入が企画した「青湾碑建立茶会」と「売茶翁百年回忌茶会」に対しては積極的に協力した。新右衛門は五月の「青湾碑茶会」には売茶翁の袈裟、売茶翁所用の茶器を二点、岡田半江の茶具図を出展している。また売茶翁百年回忌茶会」には第一席として青湾に舟を浮かべて茶会を開き、三名の花月菴門人がその茗主を務めた。
晩年に至り、新右衛門は二男のうち長男久治郎に酒造業田中屋を継がせ、新右衛門を襲名させた。そして、次男楢治郎(後の三代一窓)を連れ、天王寺の控え家(現在天王寺区上本町花月菴家元邸)に移り、隠居し「得翁」と称した。これにより、得翁の時代に長男(本家)は酒造業、次男(分家)は煎茶道をもって一家を成すこととなる。この時、得翁は田中家に伝わる書画骨董家具をすべて本・分家に二分した為、後の島の内大火により、本家が所有する名器は消失・四散してしまう。
明治十八(1885)年、得翁は七十七年の生涯を閉じた。法名は釈浄敬。
墓は天王寺の一心寺の隣、専修院の田中家代々の墓地にある。