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- 花月菴の歴史 – 花月菴楓谷(四代)
花月菴の歴史
4.花月菴楓谷(四代) 明治七(1874)年~昭和十四(1938)年
楓谷は明治七(1874)年に一窓の長男として誕生。幼名は雄蔵。
大正十一(1922)年、四十八歳で家元を継承し、まず父一窓の遺業である売茶翁生誕二百五十年の記念出版を行った。
大正十三(1924)年に「売茶翁茶器図」、翌年に「売茶翁偈語」、昭和二(1926)年に「花月菴鶴翁小傳」を刊行した。
また、同じく大正十三(1924)年十一月には、鶴翁が建立した急須塚(在邦福禅寺)を改修し、その茶会の参加者に「売茶翁茶器図」を贈った。
さらに楓谷は昭和四(1929)年に「花月菴秘録煎茶法式」を著した。
その著書の中で、楓谷は花月菴流煎茶用具並びに煎茶式作法、三代の花月菴一窓傳を記述している。
楓谷は著作に努める一方で、花月菴流煎茶指導道場として「松風清社」を設立し、煎茶道の研究に努めた。また、点茶の方法や茶具についても時代に適合するよう工夫を施した。
また、花月菴流の煎茶道を指導する傍ら、地区から選ばれて天王寺区議会議員や学務委員などの職を歴任し、地域の発展に努めた。
また、第一次世界大戦中自宅の一角に特定郵便局を開設し、局長となって地区民の郵便事務の便を図った。
昭和十四(1939)年十月六日、六十六歳で亡くなった。法名は釈浄猷。
遺命により墓所は作られていない。